『「粋」といふこと』
「ブオー!ブオー!」とクラクションが鳴り響き、黒い車がゆっくりと走り始めた。車中の私は父の遺影を胸にかかえ、参列者に黙礼をした。フロントガラスの向こうには、柳の枝が風に誘われ、淡い緑の手の平を柔らかく波打たせている。
目を少し上にやると、五月晴れの青い空をいくつもの白い雲が足早に駆けてゆく。そして、私の脳裏にも、六十七年間生きた父の人生の刻みが、現れては消え、消えてはまた違う姿で走り去ってゆくのだった。
幼い頃、私は父が憎かった。そう、少なくとも私が高校を卒業する頃まで、父は私にとっての敵だった。当時、都営住宅の六畳と四畳半の二間に、父母と長男の私をはじめとして、五人の子供がひしめき合いながら赤貧(せきひん)の暮らしをしていた。
父は東京の下町で生まれ育ったことを妙に誇りに思っていたようで、「俺は江戸っ子だから粋(いき)なんだ」というのが口癖だった。その江戸っ子は薄給にも関わらず、給料日になると友人たちに椀飯振ふる舞い(おうばんふるまい)をした挙句(あげく)どうやってひと月分の給料を使い果たしてくるのか、五円玉一枚だけを入れた給料袋を母に手渡しながら、「ちゃんと給料残してきたからな。御縁が切れませんようにってなわけだ」などとあっけらかんと言うのだった。
まるで落語を地で行くような父親であったのだが、こうして酒に酔って帰宅しては、不機嫌になると母を殴ることがしばしばあったのだ。そんな時、私は小学生ながらも、両手を広げて母を殴らせないようにと父の前に立つのだった。すると父は、「ガキのくせに洒落くせえことするんじゃねえ」などと江戸弁でまくしたて、まるで小学生同士の喧嘩のように、本気で拳を振り上げるのだった。
さて、私が高校三年生の時だった。父が最も可愛がっていた次男坊、つまりは私の弟が、反抗期のせいもあり、口論の末に父を殴り、家を飛び出してしまったのだった。その日から、父は急に小さくなり、口数も減ってしまった。
そんなある日のことだった。たまたま私は父と二人きりで家にいた。僕は一人で台所のテーブルで昼ご飯を食べていた。すると突然、父が僕の前の椅子に座り、「ひろし」と私を呼んだ。僕は父の方に顔を向けた。すると、父は涙をためながら「今まで済まなかったな。俺はお前が憎かったんだ」と唐突に言い出し、テーブルの上に手をついて頭を下げて謝り始めた。私はこのあまりにも思いがけない出来事に面喰い、無機質な物言いで「いいよ」とだけ言って父の顔から視線をはずしたのだった。
正直なところ、あれから三十八年が経った今では、あの場の気まずい雰囲気からどう抜け出したのかさえ記憶にはないのだが、一つだけ言えることは、その時から僕の心は父に近づき、そして、父の思いが何となく見えるようになったことだけは確かだった。
僕は両親の入籍前に出来た子、つまりはできちゃた結婚の末に生まれた子であり、出生届には、母の旧姓が冠されていたのだった。そのことは、私が高校受験で戸籍謄本を提出する際に、当時のことを祖母から聞いて初めて知ったのである。親戚の叔父から聞くところによれば、身籠った母を置き去りにして、自称『粋』なはずの父が、どういうわけか雲隠れしてしまったのだそうだ。
晩年、父は大好きだったはずの酒で肝臓を患い、さらにいくつかの病を併発し、入退院を繰り返しながら病院で息を引き取った。
しかし、あれだけ好き勝手をし、家族を顧みなかった父なのに、葬儀の参列者が二百人を越えたことに私達家族は驚きを隠せなかった。
そして、その通夜の晩、一人の婦人がやって来て、「生前、お父さんには随分と助けていただきました。夫が仕事に失敗し、生きてゆく手だてもない中で、親友の家族のためだからと言って、随分家計を助けていただきました」と深々と頭を下げるのだった。あまりに突然のことで、私は驚きながらも、幼いころに見た五円玉の『御縁』を思い出し、「親父、やりやがったな!」と痛快な一席に心の中で座布団を献上したのだった。「粋といふこと」、少年のように奔放だった父が、最後に大人になって教えてくれたことだった。
別れのクラクションが鳴り響き、柳がそよと手を振った。五月に生まれた少年が、大人になって五月晴れの空に帰って行った。
了
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